オート三輪

オート三輪の歴史を簡単に紹介。オート三輪の主なメーカーについても。

オート三輪の歴史 - 戦後 - 興隆~最盛期(1950年代まで)

戦後、トラック生産が再開されると、廉価なオート三輪への需要も復活した。零細メーカーは戦時体制下の統制でほぼ淘汰されたが、戦前からの三大大手メーカーに加え、終戦で市場を失った航空機産業からの転入企業が多く参入し、新技術の導入と合わせて市場を活性化した。
1950年代にオート三輪で顕著となったのは、エンジンと車体全体の大型化であった。
戦後の1947年3月、内務省管轄の「自動車取締令」の改正により、小型自動車の無免許優遇措置は廃止される一方、排気量制限は三輪車1000cc、四輪車1500ccに拡大され、更に同年12月に改めて制定された運輸省の「車両規則」により、小型三輪車も四輪車同様の最大1500ccまで排気量増大が許容された[2]。またオート三輪については、通常の四輪車と異なり、昭和20年代末期まで車体幅や車体長について制約が加えられなかった(監督官庁に「オート三輪は軽便車両」という考え方があり、四輪トラックほどの大型化を予想していなかった事情がある)。
戦後1949年まではオート三輪について公定価格が設定されており、また燃料供給事情も良くなかったことや、戦前形の設計から大きく飛躍したモデルへのニーズがまだ薄かったこともあり、エンジン排気量や車体大型化はさほど顕著でなく、エンジンの主流も戦前以来の700cc前後の単気筒型が占めていた。しかし、ドッジ・ライン以降の不況下でオート三輪の公定価格制は1949年10月に終了、以後各社間の自由競争時代へと突入する[3]。そして1950年6月に勃発した朝鮮戦争に伴い、日本はいわゆる朝鮮特需による好況転換で中小零細企業までが一気に活況を呈し、小口輸送手段としてのオート三輪への需要が高まった[4]。時を同じくして燃料供給事情も急速な改善へと向かった。
このため1950年代初頭以降、競争激化の過程でユーザーの要求に応えた巨大化・長大化が進み、ついには幅1.9m級、全長6m弱、荷台13尺(約3.9m。戦後もしばらくの間、一般社会には尺貫法が根付いていたことから、トラックの荷台長は顧客向けの案内では尺単位で表現されることが多かった)という、サイズの上では上位クラスの4輪トラックを上回るような、1.5t - 2t 積みのオート三輪まで出現する始末であった。
オート三輪はこうしてあまりに際限なく巨大化したため、当時の運輸省は1955年に至ってようやく「小型自動車扱いのオート三輪は、現存するモデル以上の大きさにしてはならない」と歯止めを掛けることになる[5]。オート三輪は元来軽便な貨物車であるという性質もあり、ほぼ全てのオート三輪メーカーは排気量抑制で小型車規格扱いとなるような車種設定に徹していた。小型車の枠外で製造された普通三輪トラックは、高知県で4輪トラックの改造により限定生産されていたトクサン号のみである。
装備の面でも充実が進んだ。1947年以降、運転台幌や前面窓の装備が始まり、1951年に開発された愛知機械工業「ヂャイアント・コンドル」は2灯ヘッドランプと丸型ハンドル(ステアリングホイール)、水冷水平対向エンジンをベンチシート下に収納したクローズドボディを実現して、居住性の水準としては四輪トラックに並んだ。しかし他社がこの流れに本格的追随するのは1950年代中盤以降である。
1950年代中期までのオート三輪エンジンは、軽量化やコストダウン、粗悪ガソリンへの適応性等の見地により、空冷の単気筒ないしV型2気筒が主流であった。しかし、そのメカニズム面ではサイドバルブからOHVへのいち早い移行、自動進角装置、油圧調整タペット、シュラウド(導風板)付強制空冷方式、サーモスタット付冷却ファンの採用など、排気量や気筒数以外は同時期の日本における小型四輪車用エンジンよりもむしろ進んでいた。
丸ハンドルの普及でサドル型の運転席が廃止されると、1950年代末期からマツダダイハツは水冷直列4気筒ガソリンエンジンを導入したが、これは同時期に生産を開始した四輪トラックとの共用を意識したものである。この頃になると1959年の小型車排気量枠拡大の影響で、オート三輪にも2000ccエンジン搭載車が出現した。

 

参照元Wikipediaオート三輪