オート三輪

オート三輪の歴史を簡単に紹介。オート三輪の主なメーカーについても。

オート三輪の歴史 - 戦前

1917年頃、大阪で前2輪・後1輪で前方に荷台を持つ自転車式貨物車(フロントカー)に、アメリカ製のエンジンキットを装備したものが出現したのが最初と見られている。
しかし安定性や積載力を欠くため、ほどなく前1輪・後2輪のレイアウトに移行した[1]。その初期には中小零細メーカーを中心に、多くのメーカーが製造していた。運転席の設計などは初期のものは自動二輪の応用部分が多く、ハンドルは二輪車と同様の棒型のもの(バーハンドル)であった。エンジンは当初アメリカやイギリス、スイス製のオートバイ用輸入単気筒・2気筒エンジンが用いられ、シャシもオートバイとリヤカーの折衷的なパイプフレームで、ローラーチェーンで後右片輪のみを駆動することで差動装置を省略していた。初期には後退ギアもなかった。
しかし、実用上の要請から改良が進み、差動装置・後退ギアの装備やシャフトドライブの採用、パイプフレームを止めて本格的なトラックとしての強度を持つプレスフレーム、チャンネルフレームへの移行、大排気量化や2気筒化など、1930年代中期には既にオートバイとは全く異なる機構を持った貨物車両に進化していた。
エンジンも、1928年JACエンジン(日本自動車、のちの「日本内燃機」製)出現以来、発動機製造(のちのダイハツ工業)などがイギリス製エンジンの流れを汲んだ空冷サイドバルブ単気筒・2気筒の実用に足るエンジンを国内生産するようになり、同時期に輸入エンジンへの関税が大きく上昇した事とも相まって、市場においては国産エンジンに大方が取って代わられた。まもなく有力エンジンメーカーはオート三輪生産に乗り出し、大手メーカー主導の体制が確立された。中小事業者からの需要の高まりを背景に販売網も整備され、1930年代後半には「ダイハツ」、「マツダ」、「くろがね」の三大ブランドへの評価が定まっていた。
戦前、小排気量三輪車の運転免許は試験制ではなく許可制であったことで、その普及を促された一面がある。その当初は上限350ccであったが、ことにオート三輪の積載能力に見合った動力性能を求めるメーカー、ユーザーの働きかけにより、1930年の改正で無免許上限は500ccに、その後更に4輪車業界も働きかけを強め、1933年には750ccまでの無免許運転が認められた。その規制緩和の効果は大きく、オート三輪市場では650 - 670cc級単気筒、750ccV型2気筒の自然空冷サイドバルブエンジンが相次いで投入され、市場での競争を促すことになった。一部には水冷エンジン車も出現、さらには前輪側面まで延長したフレームからジョイント付きシャフトを介して前輪を駆動する「前1輪駆動」のオート三輪が、中京地区のメーカー計3社から送り出されるなど、ユニークな発展も見られた。
大排気量の大型トラックのような、政府による軍用車としての用途を重視した積極的保護育成策がさほど為されず、むしろ無免許制度や許容排気量の増大といった規制緩和以外、監督官庁からの積極的関与は乏しい放任状態のままに「メーカーとユーザーの側からのボトムアップによる進化発展」が進んでいたことが、戦前日本のオート三輪の発達過程における特記すべき点と言える。
戦時中はより大型の車両の生産が優先され、ごく小型で民需が主のオート三輪の生産はほとんど途絶えた。主要な大手オート三輪メーカーは、設備を活かした別種の軍需生産に従事することになった。また戦時体制により、アッセンブリーメーカーに過ぎなかった零細企業はほとんど全てがオート三輪市場から撤退した。

 

参照元Wikipediaオート三輪