オート三輪

オート三輪の歴史を簡単に紹介。オート三輪の主なメーカーについても。

オート三輪の主なメーカーと製品

東洋工業
マツダ・T2000
マツダ・T1500
マツダ・T600
マツダ・K360

ダイハツ工業
・ミゼット
・CO型、CM型
・Bee
SCB型 (1955年)
・SDF型 (1956年)
・RKO型 (1956年)
・RKM型 (1957年)
・PM型、PO型 (1958年)

◯新三菱重工業
・三菱・みずしま
・三菱・三菱号
・三菱・レオ

日野自動車
・ハンビー

 

参照元Wikipediaオート三輪

乗用のオート三輪

日本では、1920年代に少数ながら三輪乗用車が製造された事例はあったが、市場において2名以上の定員を持つ「乗用車」として本格的に設計された自動車の成功例はない。1950年前後に、代用タクシーとしてオート三輪トラックのシャシ後部に複数定員を収容できるキャビンを架装した例もあるが、一時的な代用車であって、1950年代中期以前に廃れている。
前1輪型の3輪車としてはほぼ唯一の本格的乗用車だったダイハツ「Bee」(1951年)は、十分な完成度を極めないまま量産を断念された。これは乗用車専用シャーシのリアエンジン車で、一般にはオート三輪の範疇に含まれていない。
1950年代前半の日本では3輪・4輪を問わず、一般家庭が乗用車を所有する水準のモータリゼーションへの発展にはまだ時期尚早であり、この頃試作された4輪軽乗用車もほとんどは日の目を見ることすら出来ずに中止されている。本格的な商品性と実用性能を伴った大衆向けの軽乗用車実現は、前述のとおり1958年の4輪車「スバル・360」まで待たなければならなかった。
このようなモータリゼーション黎明期には、オート三輪でもドライバー以外に乗員1名が乗車できる程度の補助席(丸ハンドル付きクローズドボディが出現してからは助手席が2名に増加した例もあった)が存在するだけでも、大衆の実用感覚では乗用車の代用として通用していた。更には、貨物車の荷台にまで大挙乗り込んでしまう、後年の感覚では極めて危険な行為も、日常的な移動手段の一策としてまかり通っていた実情があった。
後年になって道路交通法の改正により、貨物車の荷台への乗車は、荷台の積載状況を監視する目的において最少の人間を乗せることを除いて禁止された。また、この例外的取扱でも高速道路での荷台乗車は禁止となった[9]。
スバル・360などの実用的軽乗用車や、正式な後部補助席付きのクローズド・ボディ型ライトバンが比較的廉価に購入できるようになり、それらの普及が本格化した1950年代後期以降、上述のように原始的な「代用乗用車」としてのオート三輪利用法は自然に廃れている。
以降の日本における3輪乗用車は、趣味人によるヨーロッパ製3輪乗用車の個人輸入を除けば、一人乗り・後1輪型でスクーターのドライブトレーンを利用したミニカーが1980年代以降に中小零細企業で生産されて限られた形で普及したに過ぎず、普遍的なものとはなっていない。
近年では都市部の小口輸送として、光岡・ライクT3の様な小型の電気自動車の実地テストが行われている。

 

参照元Wikipediaオート三輪

オート三輪の歴史 - 戦後 - 衰退期(1950年代末期以降)

1940年代 - 1950年代の日本におけるモータリゼーション黎明期には、簡易な輸送手段として隆盛を極めた。多くの業種で使われたが、同程度の大きさの四輪トラックよりも格段に小回りが利くことから、特に狭隘な市街地や、林道での材木運搬では重宝されたといわれている。
オート三輪林業用途などで生き延びた一因は、旋回半径が小さいことに加え、悪路での駆動力が失われ難い点にもあった。四輪トラックでは、前輪と後輪がねじれの関係にあると、後片輪の接地力が減少し、差動装置の意図せぬ効果によって空転する。路面ねじれの程度によっては、簡便な四輪駆動車を上回る踏破性を発揮し、急旋回時に前輪軌跡が大きくずれない三輪の特徴は屈曲不斉路で重宝された。
しかし、自動車交通の高速化に伴い、カーブでは転倒しやすく、高速走行に不向きなこと[6]や、居住性の悪さが敬遠されるようになる。さらにはメカニズムが高度になり、内外装のデラックス化が進むにつれ、四輪トラックとの価格差が縮小して、市場での競争力を欠くようになった。これでは敢えて三輪とする意義が薄くなってしまったのである。また1965年の三輪車運転免許の廃止も、オート三輪に対して不利に働いた。
この間、1953年の朝鮮戦争休戦後の反動不況時には、オート三輪業界にも、営業力に劣る準大手・中堅メーカーの凋落と、これに伴う上位メーカーへのシェア移行が生じた。更に1950年代中期以降は、トヨタ自動車のSKB型トラック「トヨエース」(1954年)に代表される廉価な大衆向けの4輪トラックとの競合に伴い、下位のオート三輪メーカーの撤退・転業や倒産が相次ぐようになる。これらの過程で敗退した下位メーカーには、より大手のオート三輪メーカーや四輪車メーカーの傘下に入って下請けとなり、やがて吸収された事例もあった。
例えばくろがね出身者による分派企業で「サンカー」を製造した業界最下位の日新工業は社名を変えながらも1956年までに撤退、川西航空機系で「アキツ」を製造した新明和工業は自社製品の生産を中止してダイハツ車生産の請負からやがては吸収に至り、水冷車「ヂャイアント」を手掛けた愛知機械工業は最終的に自社ブランドを捨てて日産傘下となった。その中でも「くろがね」のメーカーとして業界の名門であった日本内燃機が朝鮮戦争後に経営低迷・東急傘下でのオオタ自動車工業との合併で東急くろがね工業となりながらなおも経営迷走が続き、ついに倒産して日産自動車傘下の日産工機となったことは、敗退組メーカーの末期の混乱を示す代表的な事例である。
残存したオート三輪メーカーの多くは、4輪トラックを生産の主流に切り替えるか、後述の軽3輪トラックの生産に活路を見出し、やがて軽4輪トラック等に転業するかの道を辿った。最後までオート三輪市場に残った大手2社の三輪撤退は、ダイハツが1972年、東洋工業が1974年である。

 

参照元Wikipediaオート三輪